北方領土問題:「極北の寓話 ロシア・ノルウェーに学ぶ共存の哲学」 下斗米伸夫 法政大学教授

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 2017年9月6、7両日、ロシア極東の都市ウラジオストクで東方経済フォーラムが開催された。北方領土での共同経済活動の交渉開始や8項目の経済協力プランで合意した日ロ首脳会談から約一年。領土交渉と日ロ関係の進捗がどのように評価されるかが注目された。

 しかし、フォーラムではロシアが日本の投資ペースの遅れを指摘するなど、日ロの温度差が目立つ結果となった。早くも各社の社説も領土交渉の先行きを不安視している。

 国内で慎重論がくすぶる中、我々は今後どのようにして隣国と付き合っていくべきか。ロシア研究の第一人者、下斗米教授に聞いた。

 

 

―9月初旬は北極海スピッツベルゲン島を訪問されたそうですね。

 島の国際空港からボートで1時間半ほど行ったところにバレンツブルクという約550人のロシア人が住む小さな炭鉱町があります。そこに行っていました。

 島にはロシア人の集落が2つあり、ロシア人とノルウェー人が共存しています。また、両国民はビザなしでこの島に上陸することができ、最近は観光業も盛んです。

 

 

―なぜそのような共存が可能なのでしょうか。

 1919年のスバールバル条約(註1)によって調印国の自由な経済活動が認められているからです。この条約の加盟国は40か国で日本も含まれていますが、実際に利権を有し活用しているのはノルウェーとロシアだけです。

 島自体はノルウェー人の領事が統治するノルウェー領ですが、行政や税制は本国と異なる形で運用されています。徴収された税金は島外に持ち出せず、全て島のために使われます。本国による搾取を防ぐためのルールです。

 両コミュニティが離れた場所に暮らしていることも大きいでしょう。お互いを必要以上に意識することがありません。

 

 

―実際、現地でどのような印象を受けましたか。

 驚いたのは、拍子抜けするほどに「紛争が起きていない」ということです。ノルウェー人とロシア人が対立している印象は全くありませんでした。

 

 

―両国の対立などはないのですか。

 最近目立ったのは、2年前に欧米の経済対象であるロゴージン・ロ副首相が島を訪問し、ノルウェー政府が抗議したことくらいですね。

 ロシア人集落を取り仕切る石炭企業がベルギービールの工場を作りたいと申し出て、ノ ルウェー酒税法との兼ね合いが議論になったこともあります。しかし、それも時間をかけて調整したそうです。

 法律や税金の問題など、対立しようと思えばいくらでも対立できると思います。しかし、そこをあえて両者の話し合いや常識によって妥協点を見出しているのでしょう。まるでおとぎ話のような、おおらかな共存のあり方です。

 日ロ関係とは対照的です。日本には「『特別な制度』ということは、また新しい六法全書を日ロで作らなければならない」と考える頑固な人もいますから。

 

 

スピッツベルゲン島のような共存は北方領土でも可能でしょうか。

 難しいでしょう。少なくともこの島のやり方(註2)をそっくり当てはめるというわけにはいかないと思います。

 両国関係の歴史的背景も異なります。ロシアとノルウェーには、条約締結以前から北極圏での長い共存の歴史がありました。第二次世界大戦中にも、ノルウェーナチスドイツの占領から赤軍ソ連軍)に解放されています。ノルウェー人はロシア人に対して悪いイメージを抱いていません。

 一方、日ロはかつて戦火を交えた間柄です。「北方領土から日本人が追い出された」という戦争の記憶は今でも日本人の対ロ感情にマイナスに働いています。さらに、日ロは平和条約を締結しておらず、共存どころか国境線すら未確定という状態ですから、これも国際法的に決めなければならない。

 

 

―つまりゼロからのスタートになると。

 19世紀のイタリア統一運動(リソルジメント)に「これから『イタリア人』を作る」という有名な言葉がありますが、まさしく北方領土での共同経済活動も「これから『共存』を作る」という難題なのです。今後の共同経済活動では、税率や規模などを何度も試行しながら決めていく必要があると思います。

 

 

―ただ日本国内では、ロシアが経済協力の恩恵を受けるだけで、領土交渉は進まないのではないかという懐疑論も根強くあります。

 それには日ロ双方の姿勢にズレがあると感じます。簡単に言えば、日本人は「実利的」でロシア人は「ロマンチスト」なのですね。

 日本側は「政治的合意をしてくれれば、経済協力を次の段階に進める」という姿勢です。一方で、ロシア側は具体的な話し合いの前に、大きな約束を求めます。「サハリン(樺太)と北海道を橋で結ぶ」(シュワロフ第1副首相)という、一見早急に見える発言もこうしたところから出てくるのでしょう。

 いうならば、「卵が先か、鶏が先か」という話なのです。お互いの優先順位がかみ合わないから、「本当に相手は動いてくれるのか」という疑心暗鬼に陥りやすいのでしょう。

 

 

―フォーラムでは「日本の投資規模が小さい」という不満がロシア側から出ました。プーチン大統領が来日した昨年度から一年で、ロシア側の反応が急激に冷めた印象を受けます。

 背景として考えられるのは、投資の主体はあくまでも民間企業であって日本政府ではないということです。

 私は企業人ではないので、これはあくまで推測ですが、民間企業には「水面下で日本政府が動いているが、肝心の経済協力の全体像が見えてこない」という不安があると思います。

 例えば、政府の「8項目の経済協力プラン」(註3)についても、8項目を「できることから順番に始める」のかそれとも「パッケージとして一気にやるのか」は中々見えてきません。意思伝達の不足が政府間交渉と企業投資のタイミングのズレに繋がったのかもしれません。

 

 

―ロシア側にはどのような変化がありましたか。

 2018年3月の大統領選を控え、ロシアが国内政治の時期に入ってきたのかもしれません。大統領選を見据えたプーチン政権が以前に比べて厳しい態度をとることも考えられるでしょう。

 

―最後に、ロシアと付き合っていく上で今後重要になるのは何でしょう

 やはり、対話の積み重ねでしょうね。

 

 

 

下斗米伸夫:法政大学法学部国際政治学科教授。1948年札幌市生まれ。専門は旧ソ連政治、ロシア・CIS政治、アジア冷戦史、日ロ関係など。近著に「神と革命: ロシア革命の知られざる真実」(筑摩選書,2017,10)、「ソビエト連邦史1917-1991」(講談社学術文庫,2017,2)がある。

https://www.amazon.co.jp/%E4%B8%8B%E6%96%97%E7%B1%B3-%E4%BC%B8%E5%A4%AB/e/B001JXQRD6

 

 

 

 

 

(あとがき)

 今回のインタビュー中にふと思い出した出来事がある。2013年4月29日、安倍首相が訪ロした際の日ロ共同記者会見だ。

 会見の主題は領土交渉を加速させることなどで一致した共同宣言にあった。一方、質疑応答では、北方領土の実効支配をロシア政府が強化していることについてTBS記者が両首脳に厳しい質問を浴びせた。それに対して、プーチン大統領は「もし、領土問題解決のプロセスにおいて、妨げを起こしたいならば、激しくて直接な質問をすればよい」と不快感をあらわにしたのである。

 この会見のようなやりとりが日ロ関係では長らく繰り返されてきたように感じる。北方領土を見る時、我々はロシア側の一挙一動を取り上げ、そのつど悲観的になりがちだ。しかし、それがロシア側の目には煮え切らない態度として映ってしまうのだろう。「日本人は領土問題を解決したいのか、したくないのか」。そうしたいら立ちがプーチンの言葉からは読み取れる。

 現在、「北方領土での共同経済活動」についても実現性を疑問視する声は多い。ロシア側が厳しい態度を取るたびに、「暗礁にのりあげた」「雲行きが怪しい」といった題字が紙面に踊る。たしかに、インタビューで下斗米氏が指摘した通り、前途多難な道になることは明らかだ。それを理由に再び立ち止まることも可能である。

 一方で、遠く離れたスピッツベルゲン島のように「とりあえず進んで、その都度話し合う」という共存のやり方もある。「四島返還」に拘る人々にすれば、楽観的すぎるかもしれない。だが、戦後73年たっても未解決の問題には、アプローチの転換も必要だ。あえて、「極北のおとぎ話(スカースカ)」に学ぶのも選択肢の一つだろう。

  

 

 

 

(註1)スバールバル条約…1920年パリ講和会議で締結された、スピッツベルゲン島を含むスバールバル諸島ノルウェー領有と、加盟国による経済活動の自由、非武装地帯化を定めた条約。1925年に発効。同諸島でノルウェー、ロシア、米国など複数の国が領有権主張、石炭採掘などを繰り返したため、それを調停するために締結された。

 

(註2)国際的にはスバールバル諸島の他にも、さまざまな領土紛争解決・共同統治のモデルがある。代表的なものに、係争地域に大幅な自治権を与えたオーランド諸島(フィンランドスウェーデン)や、両国の出向者によって共同統治政府を形成したニューヘブリディーズ(英・仏、1980年バヌアツとして独立)など。

 

(註3)8項目の経済協力プラン…2016年12月の日ロ首脳会談で合意された、極東ロシアを対象にした共同プロジェクト80件(官民の合計)の総称。医療、都市環境、健康、中小企業、エネルギー、生産性向上、極東開発(ハウス栽培野菜やリハビリ施設等)、先端技術、人的交流の8項目。日本側の投資総額は3000億円程度と見込まれ、対ロ投資としては過去最大。

「積極的に学べ」:法政大学法学部教授 アンドレイ・クラフツェビチさん(66)

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日露関係についての文献が並ぶ研究室だが、最近は専ら研究よりも授業に重きを置いている

 

 

 

 

 外見からは想像できないほど流暢な日本語、力強い語り口だ。単語が出てこないこともあるが、意見がはっきりとしているので意味は十分にくみ取れる。

 

 大学ではロシア語と日露関係の講義を担当している。「日本人が何を考えているのか、理解するのは難しい」。先生は何事もはっきりと述べる。

 

 20年以上住んでいても、「異文化」である日本人を理解できないことは多い。中でも納得できないのは、学生の質問の少なさだ。「私の日本語は完璧でない。絶対に分からない点があるはず」

 

 先生は講義を必ず10分前に終わらせる。授業についての質問を受け付けるためで、海外の大学では常識だそうだ。しかし、日本の学生がしてくる質問はテストや成績に関するものばかりで、講義内容についての質問は少ない。

 

 1949年、モスクワ生まれ。青年時代、驚くべき速さで経済成長を遂げる日本に興味を持った。大学でも日本経済を専攻した。しかし日本語の講義は文章読解が中心だった。そのため、夏休みにアルバイトで日本人観光客のガイドをし、会話力は自分で鍛えた。

 

 そうした経験からか、今の学生にもゼミや授業への積極的な参加を呼びかける。求めるのはより多くのフィードバックと質問だ。「自分(先生)も意見を出しますが、これが全く正しいというわけではない」

 

 厳しさも感じられるが、この姿勢は学生への信頼の裏返しなのかもしれない。「意見はあるはず」という言葉が重く耳に響いた。

 

 

※上記は2015年11月に取材した内容をテストを兼ねて再編集したものです。